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野村萬斎・日本人の「雑食性」が舞台芸術を育む

>>宿命を力に変える狂言師の矜持とは<<

     
 美しい立ち姿、声の多彩さ、そして狂言師として生まれた宿命まで含めて、野村萬斎さんの放つオーラのようなものを「花」と呼ぶのだろう。そんな萬斎さんの存在感は、“伝統芸能とは骨董品のごとくありがたく拝むもの”という硬いイメージを軽々と覆してくれた。

 現代劇や映画、TVドラマと、ジャンルを超えて活躍する萬斎さんが、この3月、極めつきのピカレスク(悪漢)作品に再び挑む。狂言師、また舞台役者としてのこれまでの経験をすべて注ぎ込むような「運命の役」と位置付ける。そして日本文化の発信者として、萬斎さんは考え続ける。日本人のアイデンティティとは何なのだろうか、と。

 <聞き手:五十川晶子(編集者、フリーランス・ライター)/写真撮影:Shu Tokonami>


■野村萬斎 のむらまんさい (狂言師)
1966年、東京都生まれ。祖父・故六世野村万蔵及び父・野村万作に師事。重要無形文化財総合指定者。「狂言ござる乃座」主宰。東京芸術大学音楽学部卒業。国内外で多数の狂言・能公演に参加、普及に貢献する一方、現代劇や映画・テレビドラマに出演するなど幅広く活躍。
94年に文化庁芸術家在外研修制度により渡英。文化庁芸術祭新人賞、紀伊國屋演劇賞など、受賞多数。2002年より世田谷パブリックシアター芸術監督。
井上ひさし作「藪原検校(やぶはらけんぎょう)」を2015年3月20日(金)まで世田谷パブリックシアターで上演中。

型を究めるか、脱却するか

     
 ――野村萬斎さんは今年49歳になられます。「40、50は洟垂れ〈はなたれ〉小僧、60、70は働き盛り」という渋沢栄一の名言がありますが、50代は狂言師の人生にとってどういった段階なのですか。

野村萬斎(以下、萬斎) まさにスタートラインです。狂言師として幼いころから身に付けてきた「型」を、最高のレベルにまで磨き上げていく時期だと思っています。

 ――型は狂言師にとって、表現するための技術や武器という位置付けでしょうか。
 
萬斎 狂言の1つひとつの動作や振る舞いを示す名称ですが、基本的な立ち方から、食べたり飲んだりする様などの具体的な仕草や音声も含みます。30代のときには力任せでこなしていたような体力を使う役でも、40代になり、すでにマシーンのように型が身に付いていれば、力まずとも同じことができます。でも私はまだその型を究めていないし、脱し切れてもいないんです。だからまだ「洟垂れ小僧」なんですね。50代のうちに型を洗練しきったところまで究めておくかどうかで、最終的に到達できる芸のレベルが決まる気がします。

 ――型を身に付け、磨きをかけ、そのあとに初めてその型に向かって内面を膨らませていく。そこからが狂言師としての勝負どころであると。
 
萬斎 父(人間国宝の野村万作さん)は83歳になりますが、すでに型を脱却し、“解脱”の境地に達していると感じます。でもいまだに型にはこだわり、磨き続けています。だから狂言師の身体の基本中の基本である「構エ」も堅実かつ綺麗ですよ。先輩方のなかには、そういった型の部分をさっさと崩すタイプもいますが、その域が“解脱”なのか、途中で型崩れしただけなのか、それぞれです。はたまた人によってはその崩れが洒脱な芸になることもあり、年代によって何をめざすのかは、その人の生き方そのものです。

 ――萬斎さんはどちらですか。
 
萬斎 僕は両方のいいとこ取りをしたい人間だと思います。型の精度を上げる職人的な部分には、プロフェッショナルとしてこだわり続けたい。同時に、50歳になると、ガムシャラに取り組むことから少しずつ解放されていけそうだなとは感じています。いまは「思うように」体が動く年代ですが、その先にはもう何も「思わない」域もある。つまり「このときはこう体を動かそう」などと考えず、そこに狂言師がいるだけの状態です。体が周りで起きていることに自然に反応して、観ている人の心も動かす……。その域に達すれば、もう芸道の1つの境地ですよね。

 ――萬斎さんもその境地をめざしていると。
 
萬斎 楽しそうじゃないですか(笑)。ただ僕はチャレンジャーでもあるし、新しいことが好きなので、同時にいろんなことをやっていきたいですけどね。

 ――古典芸能には「時分の花」という言葉がありますが、万作さんが83歳、萬斎さんが49歳、そして長男の裕基さんが15歳ですね。一家、3代にわたり、それぞれの年代ならではの花を咲かせていく。観る側にとっても喜びになります。ただ、親子3代の稽古の様子を取材したノンフィクション番組などを拝見すると、萬斎さんは厳しい師匠ですね。
 
萬斎 そりゃ稽古中はコワイですよ(笑)。でも狂言の楽しさも教えながらでないと、付いてこられない。僕が15歳のころは、狂言が楽しいとは全然思えなかったですから。いまは、鷹が雛に実際に狩りをして見せて雛がそれを真似している段階です。理屈じゃない、分析できない、でも聴いていて心地よい「語リ」、眺めていて美しい「構エ」や「運ビ」。それらが無意識にできるまで息子の体に叩き込んでいる真っ最中です。

 

バカバカしくも生きる喜びを感じさせる

     
 ――狂言師であると同時に、役者として現代劇、映画、TVドラマにも数多く出演されています。2~3月に東京・世田谷パブリックシアターで上演される『藪原検校』(井上ひさし作、栗山民也演出)の主人公・杉の市を、初演(2012年)に続き演じます。井上さんの戯曲のなかでも傑作中の傑作と評価の高い作品ですね。東北で生まれた盲目の少年・杉の市が盗み、脅し、そして殺し、という悪逆非道を尽くす。出世双六のように江戸へと歩を進めた末、盲人社会の最高位である検校〈けんぎょう〉にまで上り詰める。これまで演じてこられた役のなかでも、とびきりインパクトのある役だと思いますが。
 
萬斎 杉の市が生きた28年の凝縮された人生を全力で生き切ったので、爽快感がありました。

 ――舞台にはグロテスクな場面もあるし、エロティックな場面も多いです。初演を拝見する前は、「杉の市に萬斎さんでは品が良すぎるのではないか……」とも。
 
萬斎 僕も含めて人間には両面性があるということでしょう(笑)。杉の市は自分の欲しいものを手に入れるために非道を尽くして、金をばらまいたけれど、それだけでは最高位までのし上がれなかったと思うんです。どこか人を惹きつけるカリスマ性やチャーミングさも兼ね備えてないといけない。

 ――過去にもいろいろな方が杉の市を演じてきましたが、萬斎さんの杉の市は、大衆に愛される芸能者として、うってつけだと思いました。なかでも台本にして11ページに及ぶ早物語(語り芸)は圧巻です。あの緩急自在な口跡とキレのある身体表現には、発声や所作など狂言師としての技術がフルに生かされたのではないかと。
 
萬斎 源平の世界と登場人物を織り込んだ、通称「餅づくし」の唄の場面ですね。大変でしたが、こうした芸は狂言師にとって専売特許のようなもので、「自分がちゃんとできないでどうする?」と思いながら演じました。それに次第にノリに乗ってしまい、軽くトランス状態になりましたし(笑)。

 ――客席も、まるで江戸の芝居小屋にいる大衆の気分で次第に興奮して、私もおひねりを投げたい気持ちになりました。
 
萬斎 僕が杉の市にうってつけだとしたら、幼いころから装置もほとんどない能の裸舞台に立つ鍛錬を続けてきたからでしょう。「餅づくし」の詞章にはことさらに意味はなくて、とにかくテンポよく、聞いている人を楽しい気持ちにさせるのが身上です。僕も、それこそ詞章の意味もわからないうちから謡〈うたい〉を覚え、自分の体や声だけを武器に、お客さんに理屈抜きの美しさとか楽しさを感じてもらう鍛錬はしてきたつもりですのでね。その日々があってこそです。さらにいえば、芸能の根幹は理屈ではなく、面白くて粋で、バカバカしいけれど生きる喜びを感じさせることにあるのではないか。狂言師である僕だからこそうまく伝えられたところがあるのかもしれません。真面目な真理よりも、思い切り楽しめるものや圧倒的に美しいものに、人びとは惹きつけられるのではないでしょうか。

 


野村萬斎氏「自分の好きなように観て、想像して構わない面白さが狂言にはあるのです」


バカバカしくも生きる喜びを感じさせる(つづき)

     
 ――ところが江戸の大衆が注目するなか、杉の市は見せしめにされます。ピカレスクと大衆との関係性も残酷なまでに冷徹に描かれています。

萬斎 人柱となり祀り上げられ、人びとの欲望を一身に集め見せしめとなる因果は、いつの世にもありますよ。そして悪人を祀り上げなくてはならない理由が、“善人”の側にもあるのでしょう。

 善と悪はいつだって簡単にひっくり返ります。狂言の演目『月見座頭』のなかで、盲人と健常者が一緒に酒を飲んでいたのに、最後にその健常者は別人になりすまして、盲人の杖を取り上げ、押し倒して去っていく場面があります。盲人は、それが酒を飲み交わした人とは別人だと思っているから、「世の中には良い人もいれば悪い人もいる」と呟いて帰っていく。狂言は古典芸能でありながら、現代にそのまま通じる不条理を表現することがあるのです。

 ――狂言の芸が使えない局面もありましたか。
 
萬斎 仏教の五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒〈おんとう〉)でいう殺生と邪淫の部分です。狂言には「すっぱ」と呼ばれる小悪党は登場しますが、絶対に人を殺しません。せいぜい盗みや、ばくち打ち、虚言を吐くなど、かわいげのある悪事を働く程度です(笑)。

 ――観劇した方々は狂言師としての萬斎さんのポテンシャルの高さを再認識したでしょうね。
 
萬斎 いろいろご意見をいただきました。三谷幸喜さんは「嫉妬を覚えました!」、『のぼうの城』の犬童一心監督も「やられました」と。僕の潜在能力がここまで引き出されたことに、ある意味で口惜しさを感じてくださったようで。

 ――演出の栗山民也さんにとっても最高の褒め言葉ですね。
 
萬斎 僕にとっても本当に幾重にも運命的な作品でした。杉の市にもう1つ共感したのは、彼は盲人としての運命を、障害や劣等感を生きるエネルギーに変えたことです。だからこそ大衆は彼の強烈な生き方に魅了されたのだろうと。僕自身も、狂言師の宿命を背負って生きることに負の意識を抱くこともありました。宿命を力に変える部分で、杉の市と類似するものを感じます。私ももう立派な中高年ですが、杉の市の享年28の人生を生きてみて、己の生き方についても考えさせられましたね。

 ――己といえば、意外にもインターネットでエゴサーチするのがお好きだとか。
 
萬斎 案外、役づくりに参考になるので毎日してますよ。1月に放送されたTVドラマ『オリエント急行殺人事件』(脚本・三谷幸喜)で日本版・名探偵ポワロの勝呂武尊を演じたときは、かなり強烈なキャラクターづくりをしたので、ちょっと検索してみたら、「すごい、素晴らしい」と同時に「あの声、ウザイ」という意見も見られました(笑)。

 

「わかりやすさ」より財産になる作品を

     
 ――萬斎さんは、狂言では「このあたりの者でござる」という名もなき庶民から、舞台や映像では平知盛、安倍晴明、細川勝元や夏目漱石など、日本の歴史上の名だたる人物を演じてこられています。それらの役を通じて、「日本人のアイデンティティ」とは何だと感じますか。
 
萬斎 雑食性ですね。前の文化を否定せず、すべて捨てずに次の時代へ引き継ぐ性質です。いま2020年の東京五輪・パラリンピックの文化プログラムの内容を議論する検討会に参加して、まさに「日本人のアイデンティティをどう捉えるか」をコンセプトに構想を練っていますが、日本人の雑食性は世界標準で見たら、かなり稀有ですよ。たとえばヨーロッパなら、ある王権を倒すと、すぐにそれに代わる新しい王権を据える。日本はそうではない。伝統芸能の世界で生きていると、より強く実感します。日本には公家文化である舞楽や雅楽が残り、武士の時代に広がった能狂言が残る。さらに町人の時代になって興った歌舞伎があります。近代になってからも新劇や小劇場や舞踏、現代のAKB48まで、多様な舞台芸術が並行して残っている。つまり、前のものを跡形も失くしてしまう文化ではなく、「すだれ文化」なのです。もったいないし、何かに使えるかもしれないから、どれも手放さず残しておく精神から助平根性とも言い換えられますが(笑)。

 ――そして世田谷区の劇場である世田谷パブリックシアターの芸術監督も務められています。国ではなくて世田谷という住民の意識が高いイメージのある1つの地域から、東京、日本、世界へと同心円状に芸術文化を発信してこられました。就任されて今年で13年目ですが手応えはいかがですか。
 
萬斎 たとえば新国立劇場で舞台芸術を上演するとなると、やはり国のフラッグシップ的な位置付けのコンテンツ、国の威信を懸けた作品でなければいけない使命があるような気がします。都立や県立も同様かもしれません。ですが、世田谷区の劇場というどこか遊撃手的な立場なら、ほかとは異なる尖ったものを作れるし、その自由さと求心力も備わっている。そのポジションを大いに意識して作品を展開してきましたし、クリエイターもスタッフも育ってきたと自負しています。

 ――モノづくりにおいて、適切なサイズとポジションだったのですね。
 
萬斎 一方、民間の立場で舞台を創作すれば採算性を一番に考えなければならない。となるとお客を呼べる役者と、親切なストーリー、視覚的にもわかりやすい装置といった「わかりやすさ」に向かうこともあるでしょう。もちろん、それを否定するわけではありませんし、その条件下だからできることもあります。ですが、元が取れれば、まるで紙コップのように捨ててまた次へ……、という創作になるのだとすれば、刹那的すぎる気もします。われわれは税金や公的なお金で運営をしていますし、できるだけ再演に堪えうる作品、将来的に劇場や地域の財産になる作品を発信しなくてはならないと考えます。

 ――小中高生や初心者を対象に「狂言教室」にも長年取り組まれていますね。
 
萬斎 狂言は「省略の美学」といわれますが、演じる側の都合で、わかりにくさと不親切があるのなら、多少なりとも手ほどきはしたほうがいいでしょう。ですから過去に、辞書機能を付けたパンフレットを刷るとか、解説を電光掲示板に流した時期もありました。しかし「想像力を働かせるもの=不親切」と捉えるいまの時代の風潮には首を傾げます。不親切ではなく、自分の好きなように観て、想像して構わない面白さが狂言にはあるのですから、周りと異なる解釈をしていいのです。

 ――結局、誰に対してもわかりやすくて親切なものは、飽きやすく、観る側が受け身になりがちですね。
 
萬斎 古典芸能は、享受する側が視覚や聴覚、いろいろな感覚を使い、時を超えて繰り返しアプローチしても揺るがない、豊かなエンターテインメントです。そういった面白さを伝えるプログラムも劇場には必要なんですよね。そのうち、若い感性の息子にも手伝ってもらおうかな……なんて考えています。

(『Voice』2015年3月号より/聞き手:五十川晶子(編集者、フリーランス・ライター)/写真撮影:Shu Tokonami)

 
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