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死者が集うネットカフェに「能」を接続 野村萬斎×マキノノゾミ

狂言師・野村萬斎による、古典の知恵と洗練をいまに還元したいというアイデアから2003年にスタートした「現代能楽集」シリーズ。第一弾より川村毅、鐘下辰男、宮沢章夫、野田秀樹、倉持 裕、前川知大といった劇作家・演出家たちが、能楽の物語や演出手法に着想を得て新作を書き下ろし、新しい現代劇を生みだしてきた。

今秋8回目を迎える同シリーズで、劇作・演出を担当するのが元・劇団M.O.Pの主宰者であり、NHK連続テレビ小説『まんてん』の脚本家としても知られるマキノノゾミ。平岡祐太、倉科カナ、眞島秀和、一路真輝といった俳優らと共に、三島由紀夫が約60年前に「能楽」のアップデートを目論み、物語を昭和へ移植した『近代能楽集』収録の『卒塔婆(そとば)小町』『熊野(ゆや)』という2つの作品を、さらに現代に換骨奪胎した新作『道玄坂綺譚』を上演する。

渋谷の道玄坂らしき場所のネットカフェを舞台に、夢幻能の世界と現実が入り乱れた『道玄坂綺譚』。いったい、ネットカフェと幻想の間からどのような「現代」が浮かび上がってくるのだろうか? そして、2015年の今、能楽を下敷きとした作品を創作することに、どのような意味があるのだろうか? 世田谷パブリックシアターの芸術監督であり、企画・監修を務める野村萬斎とマキノノゾミの対談からは、それぞれが考える現代の諸相が見えてきた。

今のネットカフェってマンガを読むだけでなく、年配の方や家出少女が寝泊まりしていたり、独特の場所になっている。(マキノ)

―11月に世田谷パブリックシアターで上演される『道玄坂綺譚』は、三島由紀夫が「能」を翻案した『卒塔婆小町』と『熊野』を換骨奪胎し、1つの物語に再構成したものだそうですが、どうしてこの2作品を組み合わされたのでしょうか?

マキノ:『卒塔婆小町』と『熊野』は、構成もよくできていて「落とし噺」として面白いし、特に『熊野』はコメディーとしても秀逸。どちらも「落差」の大きい作品であり、舞台ならではの「めくるめく変化」を表現できるのではと考えたんです。

―『道玄坂綺譚』というタイトルの由来は?

マキノ:能をベースにした作品をやるからには、現代劇であっても死者や亡霊が登場する、幻想的なストーリーになるのは間違いないので、それなら『◯◯◯奇譚』というタイトルがいいなと考えていたんです。何がいちばんしっくりくるかといろいろ当てはめてみたんですが、「道玄坂」という文字を入れた途端、これはいいなと。「道玄坂」という文字には品と妖しさが同居しているというか、実際、歓楽街やラブホテルのイメージも強く、どこか妖しい場所ですよね。

野村:「歌舞伎町綺譚」だと妖しすぎるし、ずっと品がいい感じがしますよね。

マキノ:(世田谷パブリックシアターのある)「三軒茶屋綺譚」では、語呂が悪いですし……。

―CINRAのオフィスは道玄坂にあるのですが、たしかに独特の猥雑さや妖しさもある土地です。

マキノ:また、地名の持つイメージの他にも、渋谷自体が戦後、急速に発展してきた街ということも関係しています。明治時代は「渋谷村」と呼ばれており、まったく発展していない土地でした。だからこそ、古い地霊のようなものが漂っていてもおかしくはない気がしたんです。

―今作品は、道玄坂のネットカフェを舞台に、幻想の世界と現実とを行き来する内容になるそうですが、マキノさんはネットカフェにはよく行かれるのですか?

マキノ:だいぶ前に興味本位で入ったことはありますが、それくらいですね。この作品について考えているときに、ちょうどテレビのドキュメンタリーでネットカフェの特集をしていたんです。今のネットカフェってマンガを読むだけでなく、年配の方や家出少女が寝泊まりしていたり、独特の場所になっている気がします。そんなところに登場人物である老婆の「小町」や権力者に翻弄される美女「熊野」がいたら面白いなと思ったのがきっかけでした。

―ちなみに萬斎さんはネットカフェに行ったことは?

野村:1回だけありますよ。

―えっ!? 本当ですか?

野村:いちいち身分証明書まで確認されるので躊躇したんですが(笑)、僕も興味があって入ってみたんです。恐ろしい数のマンガとフリードリンク、シャワーがあって、たしかにある種の居心地のよさを感じますよね。

―ネットカフェのどのような部分が、『卒塔婆小町』や『熊野』という物語と共鳴したのでしょうか?

マキノ:三島由紀夫さんの『卒塔婆小町』では、恋人たちが夜な夜な愛をささやく日比谷公園が舞台でした。それが三島さんの生きた時代の「通俗」だったんです。では、現代の通俗とは何か? を考えたとき、ネットカフェのスペースに籠もり、1人でゲームをしたりマンガを読んだりという光景が浮かびました。劇中でネットカフェの店員が店内のブースを眺めながら、「時々、ここが墓場だっていう想像をする」という台詞があるのですが、墓の中で自分が死んでいることにすら気づかずに、オンラインゲームや動画に没頭している客がいるというイメージですね。

―ネットカフェに「通俗」だけでなく、「死」のイメージも重ねている。

野村:実際のお墓も、ちょうどネットカフェのブースくらいの空間に区切られていますよね。そこからつながっていく世界は、冥界なのかもしれないし、六道(仏教における輪廻の世界)に通じるかもしれません。

マキノ:インターネットにアクセスすることは、冥界の入口に立つことに似ているんじゃないかって気がするんです。ふだんは見えない人間の醜い邪悪な部分がネットの中には渦巻いていて、そこにアクセスすることで、よくないものがこちら側に流れ込んでくるようなイメージがあります。ウェブに掲載されるインタビューでこういう話をするのもどうかと思いますが(笑)、よい部分がある反面、そういった負の側面もあるのではないかと思います。

死者と会話するのと同じように、知らなきゃよかったことまでわかってしまうのがネットの世界。(野村)

―特にSNSの普及以降、いい情報だけでなく、悪意のある発言なども安易に広がっていきやすい世の中になっていますよね。

マキノネットでは発言することの重みや痛みを本人が感じないままに、悪意のある言葉を垂れ流すことができます。それはある意味、人間の邪悪な部分が世界中から集まっている場所という見方もできる。もう人間の手に負えないものでは……、という気持ちになることもしばしばです。

野村 「能」は、死者や霊が登場し、あの世とこの世の交流を描くものですが、死者と会話するのと同じように、知りたいことだけでなく、知らなきゃよかったって思うことまで知らせてしまうのがネットの世界ではないでしょうか。自分にとって利益を生む情報だと思ってアクセスしても、「そうは問屋が卸さない」という部分もあるように感じます。



―渋谷の道玄坂も、ある意味冥界の入口のような妖しい雰囲気を持った街ですが、マキノさんの作品では、普段から「冥界」や「霊」といった超常的・超越的なものを意識されているのでしょうか?

マキノ:いや、そういった超常的なものを自分の芝居の要素にしたことはないですね(笑)。そもそも能は、僕の生活には全く存在しないものであり、これまでもほとんど触れようとしてきませんでした。けれど今回、萬斎さんから「現代能楽集」シリーズに参加する機会をいただいて、あらためて正面から向き合ってみると、やはり面白い世界であることがわかります。もちろん、能の世界を本当に知ろうと思ったら、一生の時間をかけても足りません。ただ、萬斎さんがやろうとしている、能や狂言といった伝統の世界と現代演劇に橋をかけることに対して、現代演劇のほうから少しずつ伝統に向けて橋を伸ばしていくことができればと考えています。

―これまで、あまり能や狂言に触れる機会のなかったマキノさんにとって、能の面白さとはどこにあるのでしょうか?

マキノ:能楽は身体性がすごく強い表現だと思います。発声にしても、舞台で鳴っている音にしても、それを聴いているだけで自分の身体が共鳴したり、別の世界に持って行かれそうな感覚があるんです。現代劇を作っていても、身体に対して関心を向けることが少なかったので新鮮ですね。

―能や狂言の身体性やその美しさは、世界的に見ても特殊な演技の様式ですね。

マキノ:「すり足」という独特の足の運び方や、地面との関係など、現代の身体性とは全く異なっています。物語だけでなく、600年以上も前から役者はこのような形で立ち、身体を運んでいたんです。靴を履くようになったり、交通手段が発達することによって、現代では移動の感覚も無意識のうちに変化していますが、まだ地面が舗装されていない時代は、おそらくああいった形で身体を使う必然があったんでしょうね。

―とはいえ、『道玄坂綺譚』に出演する平岡祐太さんや倉科カナさんがすり足で歩くわけではないですよね?

マキノ:もちろん(笑)。付け焼き刃でできるものではないですからね。

―では逆に、普段狂言を演じながら、古典と現代の融合をコンセプトにした作品の構成・演出を手掛けたり、ギリシャ悲劇『オイディプス王』や、三谷幸喜の舞台『ベッジ・パードン』への出演、スタジオジブリ映画『風立ちぬ』の声優としても活躍している萬斎さんから見て、現代劇の面白さとは?

野村:能や狂言の世界は、一門の人間やその世界を知っている人間ばかりでやっていることが多く、予定調和的なことが多いんです。密度の濃さはあるのですが、そのコミュニティーの外へと向かおうとすると、とてつもない力が必要になる。現代劇の場合、1つの作品に対して、その場限りで人が集まって上演するという部分に強いパワーを感じます。

―伝統やコミュニティーに縛られない強さが現代劇にはある。

野村:ただ、現代劇に描かれるのは、日常の1コマなど現実に即したシーンが多いですよね。比べて、能や狂言は虚構性が強く「嘘をつける」という利点があると思います。他にも能楽の音には、非常に抽象的なものもあり、ある意味ではノイズミュージックのようなものと言えるし、仮面をつけるという能の発想は、現代における「キャラ」に当てはまるでしょう。能楽には、現代劇にも通じる創作のヒントが多く含まれているんです。直接、能楽を勉強したり上演するのでなく、「能楽的なもの」を、今の表現に置き換えて上演することが、新たな発見や創作の糸口になるのではないでしょうか。

室町時代の人々と感覚を共有できることが嬉しかった。人が面白いと感じるものって、そんなに変わるものじゃない。(マキノ)

―今回、三島由紀夫『近代能楽集』から選ばれた『卒塔婆小町』『熊野』の2作品の、どのような部分に現代に通じる本質があると考えているのでしょうか?

マキノ:原作である能の『卒都婆小町』(能では「卒塔婆」ではなく「卒都婆」と表記)では、乞食のような老婆・小町が卒塔婆(仏塔)に腰掛けているのを高野山から帰ってきた高僧が咎めます。そこで老婆が「なぜいかんのだ?」と問答を仕掛け、逆に高僧を諭してしまうんです。シェイクスピアの古典劇でも見かける構造ですが、キャラ設定と話のギャップが可笑しいし、昔の人もそこを痛快に思ったんでしょうね。

―まるでコントのような話ですね。

マキノ:室町時代の人々からそういう感覚があったと思うと、それだけで微笑ましくなって、「人間って面白いな」と感じることができる。『卒都婆小町』を通じて、昔の日本人と感覚を共有できることが嬉しかったですね。人が面白いと感じるものって、そんなに変わるものではないんですよ。

野村:「能楽」というと、どうしても権威的に見られてしまいがちですが、『卒都婆小町』の高僧が老婆に言い負かされるように、ある種の批評性を内包しているんです。権威を覆すこと、あるいは「人間、死んでしまえば皆同じ」といった視線を、能楽は持っているんですよ。

「演劇や芸能があるから人間は救われている」と観客に思わせたい。(野村)

―東日本大震災以降、日本人の「死」に対する感覚は以前と比べて近くなっているのではないでしょうか? 現代演劇でも、チェルフィッチュが能の要素を取り入れた『地面と床』を上演するなど、ますます「能的な世界観」は重要になっている気がします。

野村:3.11もそうですが、能楽の歴史を振り返って見れば、数々の大きな戦乱もあれば天災もあり、多くの人々が死んでいった過去を何度も経験しているんです。だから3.11を経験した人々の中に、生死の問題をもう一度確かめたいという気持ちがあるのはわかります。「生死」は人間にとって永遠のテーマですからね。また、能楽の持つ批評性を突き詰めれば、「人間の存在とは何ぞや?」ということなのかもしれません。それは「生を考える」ことであり、「生を肯定する」ことにつながるんです。

―確かに、能楽が誕生してから600年以上の間には、東日本大震災に匹敵するようなさまざまな災いが数えきれないほど起こっています。そこを乗り越えてきた表現には、学ぶことも多いのかもしれませんね。では、能楽からヒントを得た今回の舞台では、どのようなメッセージを描きたいとお考えですか?

野村:少し大袈裟な言い方ですが、「演劇や芸能があるから人間は救われている」と観客に思わせたいですね。そうじゃないと、わざわざ時間と労力をかけて劇場まで足を運ぶ意味がない。それこそ、いまやインターネットでなんでも楽しめてしまう時代です。生きて劇場まで足を運んで、生きて帰っていくんだっていう感覚を、どこかで感じていただければと思います。

―萬斎さんが企画する「現代能楽集」シリーズは、今作で8作目を迎えます。これまで、野田秀樹、宮沢章夫、前川知大などさまざまな演出家によって、能を現代に甦らせた作品を上演してきましたが、企画者としてこのシリーズをどのように考えているのでしょうか?

野村:このシリーズの作品は、作家・演出家によって見事に個性が反映されていて、全く色が違うんです。三島由紀夫『近代能楽集』がポイントになっている演出家もいれば、原作からオリジナルで立ち上げる人もいるし、そこで亡霊に着目するか、身体性に着目するかの違いもある。共通して言えるのは、能楽の要素をヒントとして取り込んでもらうことで、演出家や俳優の創作意欲が掻き立てられ、可能性を開いていくこと。そこに1つの重きを置きたいと考えています。

―演出家にとっては、現代劇の枠を超えるきっかけとして、能を「利用する」イメージですね。

野村:またお客さんも、能楽に対するいろんなアプローチを楽しむことができると思います。今回「『熊野』に登場する平宗盛をいまに置き換えたらなんだろう?」という問いから、マキノさんはデイトレーダーというキャラクターを設定しました。そのように現代に書き換えられる物語を、僕も楽しみたいと考えています。

―原作から物語が書き換えられていくというのは、ある意味で伝承の1つの形としても考えられるし、逆に「現代とは?」という作家・演出家の視線がより強烈に現れてくるようにも感じます。

マキノ:だから作家としては怖いですよね。今作も僕のインターネットが好きじゃない部分があからさまに出てしまっています(苦笑)。

 


―現代版・平宗盛の職業として設定されたデイトレーダーも好きではなさそうですね(笑)。

マキノ:だっておかしいよね、あれ。数十秒で何億も儲かってしまうって、言っちゃなんだけど人の道を外れていると思う(笑)。

野村:まさしく「驕る平家は久しからず」ですよ。『熊野』の登場人物である平宗盛は、「壇ノ浦の戦い」で海に沈みかけたんですが、水泳が上手だったので生け捕りにされてしまい、平家の中でもいちばん悲惨な最期を迎えているんです。そういう意味では、浮き沈みの激しいデイトレーダーの世界と時の権力者の世界は似た部分がありますよね。いつの世も人間のやっていることはあまり変わらないんでしょうね。









 

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